鼻 [新訳版]

パブリックドメイン小説

作品データ

作品名:鼻
作品名読み: はな
著者名: 芥川 龍之介
初出:「新思潮」1916(大正5)年2月
原作:青空文庫『鼻』

本の難易度:★★★☆☆
読了目安時間:20分

本文

本作品は原作を読みやすいように改編したものになります。

禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻と言えば、池(いけ)の尾(お)で知らない者はない。長さは五六寸あって、上唇(うわくちびる)の上から顎(あご)の下まで垂れている。形は元も先も同じように太い。まるで細長い腸詰(ちょうづ)めのような物が、ぶらりと顔の真ん中から垂れ下がっているのだ。

五十歳を越えた内供は、沙弥(しゃみ)の頃から、内道場供奉(ないどうじょうぐぶ)の職に昇進した今日まで、内心ではずっとこの鼻を気にして悩んできた。もちろん表面では、今でもさほど気にしていないような顔をしている。これは僧侶(そうりょ)として、鼻の心配をするのが悪いと思ったからだけではない。それよりも、自分が鼻を気にしていることを人に知られるのが嫌だったからだ。内供は日常の会話の中で、「鼻」という言葉が出てくるのを何よりも恐れていた。

内供が鼻に困った理由は二つある。一つは実際的に、鼻が長いと不便だからだ。まず、飯を食べる時に一人では食べられない。一人で食べると、鼻の先が器の中の飯に触れてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳の向こう側に座らせ、飯を食べる間中、広さ一寸、長さ二尺ばかりの板で鼻を持ち上げてもらうことにした。しかしこうして飯を食べることは、持ち上げている弟子にとっても、持ち上げられている内供にとっても決して容易なことではない。一度、この弟子の代わりをした中童子(ちゅうどうじ)がくしゃみをした拍子に手が震えて、鼻を粥(かゆ)の中に落とした話は、当時京都まで広まった。しかしこれは内供にとって、決して鼻を気に病む主な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのだ。

池の尾の町の者は、このような鼻を持つ禅智内供のために、内供が俗でないことを幸せだと言った。あの鼻では誰も妻になる女性がいないだろうと思ったからだ。中には、あの鼻だから出家(しゅっけ)したのだろうと批評する者さえいた。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に悩まされることが少ないとは思っていない。内供の自尊心は、妻帯というような結果的な事実に左右されるにはあまりに繊細にできていたのだ。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の損傷を回復しようと試みた。

まず内供が考えたのは、この長い鼻を実際よりも短く見せる方法だ。これは人のいない時に、鏡に向かって、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らしてみた。どうかすると、顔の位置を変えるだけでは安心できなくなって、頬杖(ほおづえ)をついたり顎の先に指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いてみることもあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えたことは、これまでにただの一度もない。時には、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。内供は、こういう時には、鏡を箱にしまいながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の経机(きょうづくえ)へ、観音経(かんのんぎょう)を読み帰るのだ。

それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説(そうぐこうせつ)などがしばしば行われる寺である。寺の中には、僧坊が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。したがってここへ出入りする僧俗の類(たぐい)も非常に多い。内供はこういう人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心したかったからだ。だから内供の目には、紺の水干(すいかん)も白の帷子(かたびら)も入らない。まして柑子色(こうじいろ)の帽子や、椎鈍(しいにび)の法衣(ころも)などは、見慣れているだけに、あってもないかのようだ。内供は人を見ずに、ただ鼻を見た。しかし鍵鼻(かぎばな)はあっても、内供のような鼻は一つも見当たらない。その見当たらないことが度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと垂れている鼻の先をつまんでみて、年甲斐もなく顔を赤らめたのは、この不快に動かされてのことだ。

最後に、内供は、内典外典(ないてんげてん)の中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめてもの心の安らぎにしようとさえ思った。しかし、目連(もくれん)や舎利弗(しゃりほつ)の鼻が長かったとは、どの経文にも書いていない。もちろん竜樹(りゅうじゅ)や馬鳴(めみょう)も、人並みの鼻を備えた菩薩(ぼさつ)である。内供は、震旦(しんたん)の話のついでに蜀漢(しょくかん)の劉玄徳(りゅうげんとく)の耳が長かったという話を聞いた時、それが鼻だったら、どれだけ自分は心細くなくなるだろうと思った。

内供がこういう消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、積極的に鼻を短くする方法を試みたことは、わざわざ言うまでもない。内供はこの方面でもほとんどできる限りのことをした。烏瓜(からすうり)を煎じて飲んでみたこともある。鼠の尿(いばり)を鼻に塗ってみたこともある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。

ところがある年の秋、内供の用を兼ねて京へ上った弟子(でし)の僧が、知り合いの医者から長い鼻を短くする方法を教わってきた。その医者というのは、もと震旦から渡ってきた男で、当時は長楽寺(ちょうらくじ)の供僧(ぐそう)になっていたのだ。

内供は、いつものように、鼻など気にしないふりをして、その方法をすぐにやってみようとは言わずにいた。そうして一方では、気軽な口調で、食事の度に弟子の手数をかけるのが心苦しいと言った。内心ではもちろん弟子の僧が自分を説得して、この方法を試みさせるのを待っていたのだ。弟子の僧にも、内供のこの策略がわからないはずはない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略を取る気持ちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのだろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極めてこの方法を試みることを勧め出した。そして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に従うことになった。

その方法というのは、ただ、湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませるという、極めて簡単なものだった。

湯は寺の湯屋で毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯をすぐに提(ひさげ)に入れて、湯屋から汲んできた。しかし直接この提に鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷する恐れがある。そこで折敷(おしき)に穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中に入れることにした。鼻だけはこの熱い湯の中に浸しても、少しも熱くないのだ。しばらくすると弟子の僧が言った。

「もう茹だった頃でござろう」

内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気づかないだろうと思ったからだ。鼻は熱湯に蒸されて、蚤(のみ)に食われたようにむず痒い。

弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻を抜くと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら踏み始めた。内供は横になって鼻を床板の上に伸ばしながら、弟子の僧の足が上下に動くのを眼の前に見ている。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿げ頭を見下ろしながら、こんなことを言った。

「痛うはござらぬかな。医師は責めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな」

内供は首を振って、痛くないという意味を示そうとした。しかし鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで上目を使って、弟子の僧の足に皹(あかぎれ)がきれているのを眺めながら、腹を立てたような声で、

「痛うはないて」

と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気持ちのいいくらいだったのだ。

しばらく踏んでいると、やがて、粟粒(あわつぶ)のようなものが、鼻にでき始めた。まるで毛をむしった小鳥を丸炙りにしたような形だ。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう言った。

「これを鑷子(けぬき)で抜けと申すことでござった」

内供は、不満そうに頬をふくらませて、黙って弟子の僧のするなりに任せていた。もちろん弟子の僧の親切がわからないわけではない。それはわかっても、自分の鼻をまるで物品のように扱われるのが、不愉快に思われたからだ。内供は、信用しない医者の手術を受ける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子で脂(あぶら)を取るのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎(くき)のような形をして、四分ばかりの長さに抜けるのだ。

やがてこれが一通り済むと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、

「もう一度、これを茹でればようござる」

と言った。

内供はやはり、八の字を寄せたまま不服そうな顔をして、弟子の僧の言うなりになっていた。

さて二度目に茹でた鼻を出してみると、確かに、いつになく短くなっている。これでは普通の鍵鼻と大して変わらない。内供はその短くなった鼻を撫でながら、弟子の僧が出してくれる鏡を、決まりが悪そうにおずおず覗いてみた。

鼻は――あの顎の下まで垂れていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、今はわずかに上唇の上で意気地なく残喘を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕だろう。こうなれば、もう誰も笑う者はないに違いない――鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。

しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くならないかという不安があった。そこで内供は誦経(ずぎょう)する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先に触ってみた。が、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、特にそれより下に垂れてくる様子もない。それから一晩寝て、翌朝早く目が覚めると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でてみた。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経(ほけきょう)書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。

ところが二三日経つ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍(さむらい)が、前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々(ろくろく)せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていたことだ。それのみならず、かつて、内供の鼻を粥の中に落としたことのある中童子(ちゅうどうじ)なぞは、講堂の外で内供と行き違った時、初めは下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえきれずに、一度にふっと吹き出してしまった。用事を頼まれた下法師(しもほうし)たちが、面と向かっている間だけは慎んで聞いていても、内供が後ろを向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度のことではない。

内供は初め、これを自分の顔が変わったせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようだ――もちろん、中童子や下法師が笑う原因はそこにあるに違いない。けれども同じ笑うにしても、鼻の長かった昔とは、笑うのにどことなく様子が違う。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えると言えば、それまでだ。しかし、そこにはまだ何かあるらしい。

「前にはあのようにつけつけとは笑わなんだて」

内供は、誦しかけた経文をやめて、禿げ頭を傾けながら、時々こう呟くことがあった。愛すべき内供は、そういう時になると、必ずぼんやり、傍らにかけた普賢(ふげん)の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前のことを思い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのだ――内供には、遺憾ながらこの問に答えを与える明が欠けていた。

「人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん、誰でも他人の不幸に同情しない者はいない。しかしその人がその不幸をどうにかして切り抜けることができると、今度はこっちで何となく物足りないような気持ちがする。少し誇張して言えば、もう一度その人を同じ不幸に陥れてみたいような気さえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くようになる」――内供が理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感じたからに他ならない。

そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。しまいには鼻の療治(りょうじ)をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪(ほうけんどん)の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。特に内供を怒らせたのは、例の悪戯な中童子である。ある日、けたたましく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出てみると、中童子は、二尺ばかりの木の片を振り回して、毛の長い、痩せた尨犬(むくいぬ)を追い回している。それもただ追い回しているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃しながら、追い回しているのだ。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上げの木だったのだ。

内供はなまじいに、鼻が短くなったのが、かえって恨めしくなった。

するとある夜のことだ。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸(ふうたく)の鳴る音が、うるさいほど枕に通ってきた。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになくむず痒いのに気がついた。手をあててみると少し水気が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。

「無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ」

内供は、仏前に香花(こうげ)を供えるような恭しい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。

翌朝、内供がいつものように早く目が覚めてみると、寺内の銀杏(いちょう)や橡(とち)が一晩の中に葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいだろう。まだ薄い朝日に、九輪(くりん)がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀(しとみ)を上げた縁に立って、深く息を吸いこんだ。

ほとんど忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰ってきたのはこの時だ。

内供は慌てて鼻に手をやった。手に触るものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顎の下まで、五六寸も垂れている、昔の長い鼻だ。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、晴れ晴れした気持ちが、どこからともなく帰ってくるのを感じた。

「こうなれば、もう誰も笑う者はないに違いない」

内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら。

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