羅生門 [新訳版]

パブリックドメイン小説

作品データ

作品名:羅生門
作品名読み: らしょうもん
著者名: 芥川 龍之介
初出:「帝国文学」1915(大正4)年11月号
原作:青空文庫『羅生門』

本の難易度:★★★☆☆
読了目安時間:15分

本文

本作品は原作を読みやすいように改編したものになります。

羅生門

ある日の夕方、一人の下人(げにん)が羅生門(らしょうもん)の下で雨宿りをしていた。広い門の下には、この男以外誰もいない。ただ、所々に丹塗(にぬ)りの剥げた大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹止まっている。羅生門が朱雀大路(すざくおおじ)にある以上、この男以外にも雨宿りをしている人がいてもおかしくない。しかし、この男以外には誰もいない。

なぜなら、ここ数年、京都には地震や辻風(つじかぜ)、火事や飢饉(ききん)といった災害が続いていた。そこで洛中(らくちゅう)の衰退は激しく、仏像や仏具を壊して薪(たきぎ)に売る人もいた。だから、羅生門の修理などは誰も手をつけず、荒れ果てたまま放置されていた。そのため、狐狸(こり)や盗人(ぬすびと)が住むようになり、最後には引き取り手のない死人をここに捨てる習慣までできた。日が暮れると誰も近づかなくなったのだ。

代わりに鴉(からす)が集まってきた。昼間は鴉が輪を描いて門の上を飛び回っている。特に夕焼けで空が赤くなると、鴉が高い鴟尾(しび)の周りを飛び回っているのがよく見えた。鴉は、もちろん門の上にある死人の肉を啄(ついば)みに来るのだ。しかし今日は時間が遅いせいか、一羽も見えない。下人は七段ある石段の一番上の段に座り、雨を眺めながらぼんやりしていた。

下人は雨が止んでも特にどうする当てもなかった。普段なら主人の家に帰るべきだが、四五日前に暇を出された。京都の町は衰退していたため、下人もその影響で暇を出されたのだ。だから「雨に降り込められて途方に暮れていた」と言う方が正しい。今日の空模様も下人の気分に影響していた。申(さる)の刻(こく)下(さが)りから降り出した雨は止む気配がない。下人は差し当たり明日の暮らしをどうにかしようと、とりとめのない考えをしていた。

雨は羅生門を包み、遠くからザーッという音が集まってくる。夕闇は次第に空を低くして、門の屋根が斜めに突き出した先に、重たく暗い雲を支えているように見える。

どうにもならないことをどうにかするためには、手段を選んでいる暇はない。選んでいれば道端で餓死するだけだ。そうしてこの門の上へ持ってこられ、犬のように捨てられるだけだ。選ばないとすれば下人の考えは、何度も同じ道を彷徨った末に、やっとこの結論に達した。しかしこの「選ばない」は、いつまでたっても結論に達しなかった。

下人は大きなくしゃみをして立ち上がった。夕冷えのする京都は、もう火桶(ひおけ)が欲しいほど寒かった。風は門の柱と柱の間を遠慮なく吹き抜ける。丹塗りの柱に止まっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。

下人は首を縮めながら門の周りを見回した。雨風を避けられて、人目につかず一晩眠れそうな場所があれば、そこで夜を明かそうと思ったからだ。すると、幸いにも門の上の楼へ上る幅広い梯子が目に入った。上なら人がいてもどうせ死人ばかりだ。下人は腰に下げた太刀が鞘走らないように気をつけながら、藁草履(わらぞうり)を履いた足で梯子の一番下の段に足をかけた。

それから何分か後、羅生門の楼の上へ出る幅広い梯子の中段に一人の男が、猫のように身を縮めて息を殺しながら上の様子を窺(うかが)っていた。楼の上から差す火の光が、かすかに男の右頬を濡らしている。短い鬚の中に赤く膿を持った面皰(にきび)のある頬だ。下人は、最初は上にいる者は死人ばかりだと思っていた。しかし梯子を二三段上ると、上で誰かが火を灯しているらしかった。これはその光が蜘蛛(くも)の巣をかけた天井裏に揺れながら映ったので、すぐにそれと分かった。この雨の夜に羅生門の上で火を灯している者がいるからには、ただの者ではない。

下人は守宮(やもり)のように足音を忍ばせ、やっと急な梯子を一番上の段まで這うようにして上りつめた。体を出来るだけ平らにしながら、首を出来るだけ前へ出して恐る恐る楼の中を覗いた。

見ると、楼の中には噂に聞いた通り、いくつかの死骸が無造作に棄ててあったが、火の光の及ぶ範囲が思ったより狭いため、数はわからなかった。ただ、おぼろげながら、裸の死骸と着物を着た死骸があるということが分かった。もちろん、中には女も男も混じっているらしい。それらの死骸は皆、生きていた人間だということが疑われるほど土をこねて造った人形のようにごろごろと床に転がっていた。肩や胸の高くなっている部分にぼんやりと火の光を受けて、低くなっている部分の影を一層暗くして黙っていた。

下人はその死骸の腐爛(ふらん)した臭いに思わず鼻を覆った。しかしその手は次の瞬間にはもう鼻を覆うことを忘れていた。ある強い感情がほとんどすべての嗅覚を奪ってしまったからだ。

下人の目は、その時、初めてその死骸の中に蹲(うずくま)っている人間を見た。檜皮色(ひわだいろ)の着物を着た、背の低い痩せた白髪頭の老婆である。その老婆は右手に火を灯した松の木片(きぎれ)を持って、その死骸の一つの顔を覗き込むように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。

下人は六分の恐怖と四分の好奇心に動かされ、しばらくは呼吸をするのさえ忘れていた。「頭身の毛も太る」と感じたのである。老婆は松の木片を床板の間に挿し、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、猿の親が猿の子の虱(しらみ)を取るようにその長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。

その髪の毛が一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは恐怖が少しずつ消えていった。そしてそれと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が少しずつ湧いてきた。いや、この老婆に対するというより、あらゆる悪に対する反感が一分毎に強さを増してきた。この時、誰かがこの下人に「饑死をするか盗人になるか」という問題を改めて持ち出したら、下人は何の未練もなく饑死を選んだだろう。それほどこの男の悪を憎む心は勢いよく燃え上がり出していたのである。

下人には、老婆が死人の髪の毛を抜く理由が分からなかった。だからそれを善悪のどちらに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に羅生門の上で死人の髪の毛を抜くということがそれだけで許し難い悪であった。もちろん下人は、さっきまで自分が盗人になる気でいたことなど忘れていたのである。

そこで下人は両足に力を入れて、いきなり梯子から上へ飛び上がった。そして聖柄(ひじりづか)の太刀に手をかけながら大股に老婆の前へ歩み寄った。老婆が驚いたのは言うまでもない。老婆は一目下人を見ると弩(いしゆみ)にでも弾かれたように飛び上がった。

「どこへ行く。」

下人は老婆が死骸につまずきながら慌てふためいて逃げようとするのを塞いで罵った。老婆はそれでも下人を押しのけて行こうとする。下人はまたそれを行かせまいとして押し戻す。二人は死骸の中でしばらく無言のままつかみ合った。しかし勝敗は初めから分かっている。下人はとうとう老婆の腕をつかんで無理やりそこへねじ倒した。鶏の脚のような骨と皮ばかりの腕である。

「何をしていた。言え。言わぬとこれだぞ。」

下人は老婆を突き放すといきなり太刀の鞘を払って白い鋼の色をその目の前に突きつけた。しかし老婆は黙っている。両手をわなわな震わせ肩で息を切りながら目を見開いて唖のように執拗に黙っている。これを見ると下人は初めてこの老婆の生死が完全に自分の意志に支配されていることを意識した。そしてこの意識は憎悪の心を冷ましてしまった。後に残ったのはただ、ある仕事をしてそれが成し遂げられた時の満足だけである。下人は老婆を見下ろしながら少し声を柔らげてこう言った。

「俺は検非違使(けびいし)の役人じゃない。さっきこの門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前をどうこうするつもりはない。ただ、この門の上で何をしていたか話せばいい。」

すると老婆は見開いた目を一層大きくしてじっと下人の顔を見守った。肉食鳥のような鋭い目で見たのである。それから皺で鼻と一つになった唇を何か噛んでいるように動かした。細い喉で尖った喉仏(のどぼとけ)が動いているのが見える。その時、その喉から鴉のような声が下人の耳に伝わってきた。

「この髪を抜いてな、鬘(かずら)にしようと思ったのじゃ。」

下人は老婆の答えが平凡なのに失望した。そして失望すると同時にまた前の憎悪が冷やかな侮蔑(ぶべつ)と一緒に心に戻ってきた。するとその気配が老婆にも伝わったのだろう。老婆は片手にまだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったままヒキガエルのつぶやくような声でこんなことを言った。

「死人の髪の毛を抜くのは悪いことかもしれぬ。しかしここにいる死人は皆、それくらいのことをされてもいい人間ばかりだ。この女などは蛇を四寸(しすん)ほどに切って干したものを干魚だと言って太刀帯(たてわき)の陣へ売りに行ったのだ。疫病(えやみ)にかかって死ななければ今でも売りに行っていただろう。その干魚は味が良いと言って太刀帯どもが欠かさず買っていたそうだ。私はこの女のしたことが悪いとは思わぬ。しなければ饑死をするのだ。だから仕方がなくしたことだろう。それに私のしていることも悪いとは思わぬ。これもやはりしなければ饑死をするからだ。だからこの女も私のすることを大目に見てくれるだろう。」

老婆はこんなことを言った。下人は太刀を鞘に収め、その柄を左手で押さえながら冷然としてこの話を聞いていた。もちろん右手では頬の大きな面皰を気にしながら聞いている。しかしこれを聞くうちに下人の心にはある勇気が生まれてきた。それは門の下で欠けていた勇気である。そしてまた老婆を捕えた時の勇気とは全く逆の方向に動こうとする勇気である。下人は饑死をするか盗人になるかに迷わなかっただけでなく、饑死などということは考えることさえできないほど意識の外に追い出されていた。

「きっと、そうか。」

老婆の話が終わると下人は嘲(あざけ)るような声で念を押した。そして一歩前に出ると不意に右手を面皰から離して老婆の襟上(えりがみ)をつかみながらこう言った。

「ならば俺が引剥(ひはぎ)をしても恨むまいな。俺もそうしなければ饑死をする体なのだ。」

下人は素早く老婆の着物を剥ぎ取った。それから足にしがみつこうとする老婆を手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは僅かに五歩を数えるばかりだ。下人は剥ぎ取った着物を脇にかかえて瞬く間に急な梯子を駆け下りた。

しばらく死んだように倒れていた老婆が死骸の中からその裸の体を起こしたのはそれから間もなくのことである。老婆はつぶやくような声を立てながらまだ燃えている火の光を頼りに梯子の口まで這って行った。そしてそこから短い白髪を逆さにして門の下を覗き込んだ。外にはただ黒々とした夜が広がっているばかりである。

下人の行方は誰も知らない。

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